MAPPLE×新しいスタイル

~「家族に会いたい」その一念で80kmの道のりを帰ろうとした社員が今、思うこと~

2011年3月11日。自社の『震災時帰宅支援マップ』を頼って、実際に当日30km、翌日10km強、合わせて40km以上も歩いて自宅を目指した社員がいました。そのときの体験を時系列で振り返り、今、地震後にすべき行動について、改めて考えてみます。

 

|| あのとき
東日本大震災発生時は、打合せのために日本橋浜町のオフィスに向かって歩いている途中でした。

水天宮前駅から打合せ場所へと移動中地震が起きた

 

|| 地震をどう感じたか
長い揺れで、徐々に強くなっていったので「いつまで続くんだろう、どこまで大きくなるんだろう」とパニックになりました。歩道にいましたが、目の前のビルが鉛筆のように揺れ、最上階が道路にせり出してくるように見えたので、身体が勝手に車のいる道路のほうに向かってしまい「車にひかれる」と慌てた記憶があります。

|| とっさに思ったことは?
ストロークの長い揺れからとっさに遠方だな、と感じました。前々日(3月9日)に宮城で地震があったので、「あれが前震だったのか、東北は大丈夫か」とも直感的に思いました。

|| 収まったときの気持ちは?
信号が消えなかったので「東京のライフラインは途絶しなかったんだ」と安堵しました。しかし車も止まり、人も誰一人声を発していなかった静寂の中で、街灯だけがブオンブオンと大きな音を立てて揺れ続けていたので、「SF映画のワンシーン」の中にいるような、何とも言えない恐怖に襲われました。

|| 地震後最初の行動は?
打合せ場所のビルへ向かうと、壁に亀裂が入っていて、オフィスから社員が続々出てきました。その流れに乗って、浜町公園に向かいました。15時くらいには着いたと思います。公園には少なくとも数百人が集まっていて、ラジオが大音量で流れており、「東北地方近海を震源とするマグニチュード7.9、最大震度7の地震が発生」と伝えていました。

地震直後、浜町公園に避難した際の移動経路

 

|| 家族・知人の心配
集まった同僚たちと、雑談などして気を落ち着かせていたのですが、大きな余震が発生し、公園のあちこちで悲鳴が上がり、その後ラジオから「茨城県沖でマグニチュード7.4、最大震度6強の余震発生」の報が流れました。その瞬間、茨城に住む家族の命が危ない、との思いが全身を駆け巡り、「帰るしかない」と決断、その場を離れました。

|| 帰宅に際しての準備
「もし家族が大けがをしていたら、病院代がかかるけど、銀行が空いていないだろう」と思い、コンビニに駆け込んでATMから現金を下ろしました。その場にあったマップルの地図と、栄養補給のためのお菓子、乾電池利用の携帯充電器、水を買ってリュックに詰め、国道6号線で一路茨城県中部にある自宅を目指しました。15時40分過ぎだったと思います。

帰宅するため準備(買い物等)をした際の移動経路

 

|| 家族・知人とのコンタクト
家族に何度かメールをしましたが返事はありませんでした。自宅への電話は多くの電話が集中して回線が使えなくなる事態が起きることを懸念し自重、かわりに島根にいる友人に電話をして、妻の携帯や自分の実家、などに断続的にメールしてもらえないか頼みました。

|| 帰路の行動(16~20時)
ひたすら国道6号線を北東へ進みました。途中隅田川、荒川、江戸川を越える際は、歩道が込み合って非常に歩きにくく、かつ風も強い日でしたので、かなりの恐怖感がありました。

本格的な徒歩移動を開始、浅草を通り隅田川を渡る

 

葛飾警察署付近では緊張が少し解けて急激に空腹を覚え、ファミリーレストランに入って食べられるだけ目一杯注文し今後に備えました。この時点で家族とメールが繋がり、無事を知り安堵しました。

急激に空腹をおぼえ立ち寄った葛飾警察署近くのファミリーレストラン

 

このままでは携帯の電池が持たない、と思い、ラジオが売っているところを探して金町駅付近をウロウロしましたが、駅周辺は店じまいされ閑散としており、何も見つけられませんでした。

ラジオを探して金町駅周辺をさまようも開いている店を見つけられず

 

夜になり松戸に入ると「宮城県で津波による死者多数」といったWEB報道が多数入るようになり、暗澹たる気持ちで暗い道を進みました。

どこまで電気が通っているのか心配になり、サイトを携帯で逐次確認、進行方向には停電箇所がほとんどないことを確認して前進しました。

|| 帰路の行動(20~21時半)
「できる限り進もう」と思っていましたので特に到達目標はなかったのですが、都内で橋を渡った経験から、「利根川を夜間渡ることは無理だろう」と考え、漠然と利根川手前の我孫子市まで行ったら休憩しよう、と思うようになっていました。

松戸市内でラジオが買える店を探しつつ前進しましたが、普段遅くまで営業していそうな店もすべて閉店して見つかりません。再び急激に空腹を覚え、焼き肉店に。普段は少食なのですが、このときは二人前をペロッと平らげられたので自分でも驚きました。恐らく今後の長い移動への危機感からだと思います。

周囲では家族で団らんする姿も見受けられたので、家族と会えない自分の境遇とのギャップを感じました。

2度目の空腹、松戸の焼肉店に入る

 

|| 帰路の行動(21時半~24時)
松戸を抜け、流山、柏と進み、ついに営業中のドン・キホーテ(現MEGAドン・キホーテ柏店)を発見しました。頭上注意の貼り紙立ち入り禁止のテープが張り巡らされた中、店員さんに携帯ラジオの購入を依頼したところ、散らかった陳列品をかき分けるように売り場に入り、ラジオを取ってきてくださいました。この時は本当に感謝、感激しました。

遂にラジオが買えるお店を発見!

 

ラジオで詳細な被害状況を確認しながら柏駅前に到着。茨城県南部は幸い通電エリアでしたので、もしタクシーがつかまるなら、利根川を車で超えて、茨城県下で休憩し、翌日家に帰ろう、と考えました。

ところがタクシー乗り場は長蛇の列。どうみても1時間以上待たないと乗れそうにもなく、柏で一泊することに。といっても24時間営業の店がどれだけ空いているかは全く見当がつかなかったので、取り急ぎ駅前の居酒屋に入り、携帯で周囲の宿泊施設やカラオケ屋さんを検索しまくりました。
ほどなく近所のカラオケ屋さんが予約できたので移動、荷物を置いて就眠しましたが、断続的な余震で全く寝られず翌朝を迎えます。この時点で東京から30km移動していました。

柏駅でタクシーを探すも行列で断念、寝る場所を探しカラオケ屋で1泊

 

|| 翌朝の行動
翌朝5時にお店を出て、しばらく柏駅周辺で時間をつぶし、ホテルのレストランが開いたのを見つけて朝食をとりました。近所の方が普通に休日のモーニングを味わっている横で、今日の行動計画を必死に立てている自分とのギャップを再び感じた瞬間でした。

|| 電車移動が可能に!
柏駅で「常磐線が取手まで部分運行」の貼り紙を見つけて、歓喜しました。しばらく電車を待って乗り込み、利根川を渡って取手に到着。川を無事渡れてホッとしました。

柏-取手間が部分運行再開!利根川を無事渡る

 

 これで勇気が湧き、お昼にはこれも再開していた関東鉄道でイチかバチか、守谷に移動してつくばエクスプレスに乗ろうと画策します。しかし守谷に着くとなんとつくばエクスプレスは全面運休…泣く泣く取手に戻り、そこから再び徒歩で自宅を目指しました。

関東鉄道で守谷まで移動するも無駄足となる

 

前日とは打って変わって暖かい晴天。こんなにのどかな日和にもかかわらず、今は災害下なのだ、と思うとなんとも言えない気持ちになりました。

|| ガソリンか買い物か 家族とせめぎ合うジレンマ
家族とは電話が通じるようになっていたので、あとは合流地点の相談に。ガソリンが買えない、というニュースが流れ始めていたので、家族はできるだけ北上してくるように言ってきます。体力的には全く問題なく、あと20kmくらいなら行けると思ったのですが、こちらは停電していない、比較的平穏なエリアにいたので「そちらは停電と断水なのだから、こちらに来て多くの水と電池を買って、そこで合流したほうがいいよ」と主張。どちらも一理あるためなかなか折り合いません。
藤代駅付近のファーストフード店に入って再度交渉、ようやく佐貫(現龍ケ崎市)駅付近の量販店待ち合わせで合流することになりました。

家族と合流地点を折衝しながら龍ケ崎まで移動

 

その後2時間ほどかかったでしょうか。長い長い待ち時間のあと、車が駐車場に入ってきた瞬間の安堵感は、言葉に表すのが難しい、何とも言えない気持ちでした。

ここまで約42kmが当日・翌日の徒歩による帰宅行動の全貌です。

|| 今、思うこと。

  • 当時は家族がとにかく心配で、矢も楯もたまらず家路を急ぎましたが、今考えると、たまたま首都圏ではライフラインが途絶しなかったエリアが多かったからできたことであり、無謀だった、と深く反省しています。
    ※なお、現在の『帰宅支援マップ』は、東日本大震災の教訓を元に、まず一時避難ののち、安全を確認してからの帰宅を推奨する内容となっています(⇒関連コラムはコチラから)。
  • 冬場や夏場など、気象条件が厳しい季節に長時間移動すること自体、大変なリスクをはらんでいると思います。体力をどれだけ温存できるか、がカギを握ると今は痛切に思います。
  • 倒壊や火災がない状況でも、夜間の歩行、特に橋を渡る際は恐怖を感じました。どこにどんな亀裂や段差が生じているかもわからない中、停電しているような状況での帰宅は絶対に避けたほうがよいと思います。
  • 地図会社の社員だけにどうしても宣伝じみてしまうのですが、地図を頼る場面が幾度となくありました。ネットで見られるから、と思うかもしれませんが、携帯頼みがより強くなっている今、電池がなくなる恐怖は相当なものです。紙の地図がある安心感は、何物にも代えがたいものでした。
  • 地図だけでなく、電池、ヘッドランプ、簡易のコップや敷物、絆創膏や消毒薬、ボディタオルなど、災害用の最低限の装備は常に持っていないと本当に大変だ、とヒシヒシと感じました。あれから10年、通勤時は常にそうした備品を携行しています。
  • 時間をおいてから帰宅するにせよ、当時の自分はあまりにもそうした避難ルートや家族との連絡・待ち合わせなどの準備に無頓着でした。少なくとも年に一回は備えを新たにする機会を設けるべきだと痛感し、実践しています。
  • 最後に。近くに人がいることはとても安心感があります。しかし集団でよくわからない情報を鵜吞みにして行動すると、思わぬ事故二次災害に巻き込まれる危険も感じました。実際広場でラジオが流れていましたが、もし誤報や誤った捉え方で噂が発生したりしたら、大変なことになります。情報に踊らされずに安全な場所に留まる「すぐに行動しない勇気」これが肝心だと強く思います。

 


 

いかがでしたか。大きな災害に遭遇すると平常心を失い、判断力が鈍ることも大いに考えられます。日頃から準備しておくことの大切さと、帰宅を急がず、群衆心理に巻き込まれないようにすることの重要性を、この記録から感じ取っていただけたら、と思います。

関連コラムも公開しています。ぜひお読みください。

東日本大震災から10年 『あのとき、そして今、思うこと。』 特設ページ
https://www.mapple.co.jp/blog/13323/