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~26年前を振り返り、現昭文社社長、清水康史が語る「阪神・淡路大震災で学んだ地図の公益性」~

東日本大震災に触れるにあたり、その16年前に起きた「阪神・淡路大震災」の記憶を呼び覚ますことから、私たちはスタートしました。

1995年1月17日。突然襲った直下型地震を前に、昭文社大阪支社は大混乱に陥りました。「こんなときに被災地の書店がまともに営業できるわけがない」恐る恐る書店を訪問した営業部員に、店主がかけた言葉は、意外なものでした。
「どんどん地図を持ってきてや!兵庫県被災地域の地図、あるだけ出荷してくれ!」
そうか、救助や安否確認には、地図が必要なんだ…

営業部員、清水の「あのとき」(阪神・淡路大震災)

「あのときは、地震のことがまったく頭になかった」と昭文社大阪支社の営業担当だった清水康史(現昭文社代表取締役)は振り返ります。
元々東京育ち、阪神・淡路大震災の約十年前に大阪に赴任していた清水は、当時の関西が「地震」に慣れていなかったことを覚えています。「震度3くらいの地震でもみんなビックリしていた。東京では震度4以上の地震を何度か経験していたので、最初は周囲にちょっと驚いていたが、大阪に住んで何年も経つと自分もそういう意識に染まっていた」

その日の朝、清水は、新大阪のマンションの2Fで熟睡中でした。突き上げる音と揺れに「戦争が起きたのか!」と思ったといいます。激しい揺れがようやく収まり、外に出てみると、周囲の住民もみな外に飛び出していました。
幸い新大阪はライフラインが大きく途絶することはなく、テレビを見たり、知人からの電話に出たりする中で状況を把握します。
「神戸が大変なことになっている!阪神高速が横倒しだ…」徐々に深刻な被害の報が入りだし、これは大変なことになった、と暗澹たる気持ちを抱えながら、すぐ近くの大阪支社に出勤しました。

会社に行くとすでに大阪支社のトップである専務が仁王立ちして陣頭指揮をとっていました。「こんな日に仕事になるわけがない」と思っていた清水に、専務は檄を飛ばします。「これから地図が必要になる。すぐに散らかった倉庫に行って、地図の印刷原板(フイルム)を整理して来い!」

フイルム復旧作業中の清水(写真右)

罹災している社員もいる中、安否確認・ケアと並行して、ぐちゃぐちゃになった商品材料の整理が始まりました。社屋内の保管フロアと物流倉庫(商品センター)に手分けして向かい、印刷原板等を拾い上げて棚に戻します。1月17日は火曜日でしたが、その日のうちにはおおむね片付けが一段落、週末にかけて徐々に罹災者も出社し始めます。「やれやれ」と、思った清水に再び専務の指示が下りました。「今週末の土日から、毎週、被災地の書店に手分けして出向いて、状況確認をするぞ!」

清水は戸惑いました。清水は当時、主に大阪のミナミ周辺の書店を回る営業担当で、兵庫県の書店はよく知りません。「こんなときに面識もない店主に会って、話を聞いてもらえるのだろうか…そもそも商売の話など、火事場泥棒みたいに言われやしないだろうか…」不安にさいなまれながら、リュックに兵庫県の地図と水、食料を詰めて、徒歩で現地に向かいました。

「互いの気持ちが通じた」書店店主の思いとは?

行けるところまで電車で行き、その後長い道のりを歩いて被災地の書店に到着した清水。恐る恐る店内を覗くと、店主らしき人が出てきました。
「ご苦労さん!よう来たな…地図、どんどん持ってきてや。救助にもボランティアにも地図は必要やし、ウチも被災して、ずっと商売ができないと困るし、かといって今、雑誌や小説を読むヤツはまずおらんしな」
正直ドヤされるかと思っていた清水は、専務の気持ちと店主の気持ちが同じだったことにこのとき気付いたといいます。
「こんなときだからこそ、地図をどんどんお店に届けて、必要としている人の手元に届けるべきなんだ」

最初の週末に21名の営業部隊が、兵庫県内の103店舗を訪問。店舗が罹災し、オープンの見通しが立たない所、駐車場などで仮営業状態の所も少なくありませんでしたが、行く先々でお店の方からねぎらわれ、地図が飛ぶように売れていることを知りました。特に「神戸市」「西宮市」「芦屋市」「宝塚市」の注文が殺到した、と当時の記録に残っています。それに伴い編集・制作・物流部門もフル稼働、連日増刷対応を行い、毎日当該商品を刷っては出荷します。
営業部隊がそれを持って各週末に兵庫県下の書店訪問を行う、という特別体制が1カ月続き、その間、関西一円の取引先にお見舞いを届けたり、駅の要請で地図を急遽主要駅に掲示するなどの活動も行いました。

駅の要請で無償掲示した地図(新大阪駅)

このとき清水が感じた「人々の思い、ニーズに寄り添うことが、一番大事なんだ」という教訓が、東日本大震災の際の対応へと繋がることになります。

東日本大震災も経験し、そして「今、思うこと」

阪神・淡路大震災から数年が経過しても、ブルーシートを被った建物を見るたびに心を痛めていた清水は、2003年に東京へ転勤しました。そして2011年、東日本大震災を東京の本社ビルで経験することになります。
「揺れが強くなった瞬間、阪神(・淡路大震災)がフラッシュバックして、恐怖が襲ってきた」といいます。
しかし、あのときを思い出し、すぐに社員や取引先の被災状況を確認、迅速に地図を供給、編集部から上がってきた救援やボランティア活動を支えるための『復興支援地図』企画(⇒復興支援地図の制作プロセスのコラムはコチラから)も支持しました。

最後に、二つの震災を経験した清水が「今、思うこと」を聞きました。
「今の時代、地震に加えて、毎年のように大水害や台風、高潮、大規模停電など、以前は予想もしなかったような<激動の時代>に突入している、という気持ちがまずひとつ。そしてそうした何かが起きたとき、大切なのはまずは身の安全、そして<大げさに考えること>だと思っている」
「人間はつい大丈夫だ、という認知バイアスに陥りがちだから、災害などの際は、慌てることなくかつ大げさに考えて、あらゆる事態を想定してどんどん動かないといけない」
「今の時代、紙の地図ではないテクノロジーもたくさんある。首都直下地震、南海トラフ地震なども想定される中、いかにして身の安全を守るか、さまざまな手段を組み合わせる形で、少しでも役立つ商品・サービスを提供できれば」

いかがでしたか。災害や事件事故は都度性質も異なり、どう対応するかは非常に難しいと感じます。しかしながら「今、何が必要か、人々の思いは何か」を考え抜くこと、想像力を持つこと、がそれらを切り抜けるひとつの<よすが>となることを、今回のインタビューから学びました。

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東日本大震災から10年 『あのとき、そして今、思うこと。』 特設ページ
https://www.mapple.co.jp/blog/13323/