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~阪神・淡路大震災の経験者として「地図を供給しなくては」という使命感から3カ月半、動き続けた社員~

東日本大震災直後、阪神・淡路大震災を経験した社員を中心とする社員有志が2カ月強の期間で『東日本大震災 復興支援地図』を作り、被災地に無償配布しました。ライトバンに積み込んで現地に運ぶなど、被災地からの依頼に応え当時奔走した社員に、そのときの思い、そして今思うことを、聞きました。

地震発生の直後から被災エリアの地図企画を開始、2週間で出荷

10年前の3月11日。当時地図編集部に在籍していた岡口徹(現昭文社経営企画室長)は、あのときのことを鮮明に覚えていました。
「江東区の制作本部という拠点の2Fで業務中、東日本大震災に遭遇しました。揺れがどんどん大きくなっていったときに、とっさに阪神・淡路大震災を思い出し、周囲の人に安全を確保するよう促しつつ、家族に、今日は帰れないよ、と電話したことを覚えています」

非常に冷静だった岡口。これには理由があります。学生だった95年、阪神・淡路大震災を大阪市内で経験、幸い自宅周辺では大きな被害がなかったものの、大学の友人が兵庫県で罹災し、連日水を入れたタンクをスクーターに積み込んでは現地まで届けていたため、震源に近い地域の被害の大きさを目の当たりにしていたのです。

「友人の家は本当に大変な状況だったし、ついこの前まで歩いていた街並みが一変してしまって、物凄くショックでした」

その経験から、地震直後はもちろん大変だけれども、そのあとも数カ月、場合によっては年単位で大変な状況が続くから、落ち着いて状況を把握した上で、息の長い支援が必要だ、と強く思うようになったといいます。

「あのときも、社屋のみんなに被害がないことが確認できたあと、すぐに被災状況の把握に集中して、東北を中心とした太平洋沿岸の被害が大きいことがわかりました。帰宅するスタッフと居残るスタッフをそれぞれケアしたあと、夕方近くには被災地周辺の地図を出版するための準備、企画作業に入りました」
「被災地のうち、詳細な情報が記載された『都市地図=大きな縮尺で街路や施設、住所がわかりやすく掲載された一枚物の地図』が刊行されていないエリアを抽出して、そこが収録されるように範囲と縮尺を決めていく作業(=図取り〔ずどり〕)を翌朝まで断続的にやっていました」

その作業を元に翌週提案された新刊商品企画の概要がこの書類です。

被災地を収録した新刊地図企画の概要書類

 

「会社もすぐに承認してくれて、早速データを作成し、印刷会社に入稿しました。大変だったのは紙の確保。宮城県の製紙工場自体が甚大な被害に遭いストップしてしまうなど、紙の供給量が大幅に減少。幸い当社は大阪にも取引先の印刷拠点があったのと、製作部門が奔走してくれたことでなんとか紙を確保し、印刷にこぎつけました」

通常、こうした都市地図の企画から出版までは数カ月を要するところですが、このときは緊急事態。3月11日当日から企画作業に入った地図は、なんと10日後の3月21日には刷り上がってきました。しかしここで大きな問題が起こります。都市地図は折り畳まれて印刷会社から納品されるのですが、それをパッケージ(紙箱)に入れる箱詰め作業を行う体制が、地震の影響で整わないのです。そこで岡口は、社員有志に声をかけ、社屋で自分たちで箱詰めすることを決断、計画表を作成し、社員に呼び掛けました。

都市地図箱詰め作業の計画・実績表

 

連日五月雨で納品される都市地図を、多い日は1万部以上も詰めていったことが記録されています。

「編集部や製作部のスタッフが連日何十人も作業してくれました。自分で計画しつつ、本当にできるのか、と不安もありましたが、3月23日には物流倉庫に納めることができてホッとしました」

震災から2週間で新刊地図ができ出荷されたことになります。しかし岡口の頭には、この作業に忙殺される間もずっと「もっと被災状況のわかる地図を作らねばならない」という切迫した思いが渦巻いていたのです。

救援活動・復興に役立つ被災情報入り地図の企画に着手

都市地図の作業が落ち着くと、岡口を中心とした地図編集部は、被災情報、特に津波の遡上した範囲や、避難所、仮設住宅などが記載された地図の企画に入ります。その理由も、岡口の経験によるところが大きかったといいます。

「阪神(・淡路大震災)のときに被災地に連日行っていた経験から、とにかく現地の被害状況や対策本部、避難所の位置などの情報が必要、と痛感していました。当時と違いインターネットやスマートフォンがあるとはいえ、ライフラインの復旧もままならない現地で、救援や復興の活動に役立つためには、紙の地図が不可欠だと震災直後から思っていました」
「特に東日本大震災の場合、津波の被害が甚大でしたから、その範囲がどこだったのか掲載した地図をいち早く出版しないといけない、と強く思っていました。動き出さないとどんどん時間が経ってしまうので、どうやって津波の遡上範囲を特定するのか、その点は見切り発車で衛星写真を入手することとし、とにかく企画書を上げよう、と編集部に発破をかけました」

被災地の状況を掲載する『震災復興のための支援地図』企画提案書

全社一丸で地図情報更新と津波遡上範囲の入手に奔走

3月29日に企画提案書を提出し、すぐに承認され、岡口を中心に地図編集部のプロジェクトチームは復興支援地図の制作に着手しました。しかし、肝心な情報の入手、地図の更新という部分で、大きな壁にぶつかります。

「地図の更新には、まず大元のデータベースの更新が不可欠でした。デジタル、紙を問わずたくさんの商品・サービスを展開している当社は、商品ごとに更新作業をするのではなく、最新のデータベースから、情報をコピーし加工して制作します」
「東日本大震災のときは、被災地へ向かう交通網が寸断され、復旧状況も日々刻々と変わっていきました。それらの更新を連日、データベースに反映していくのは、取材体制、現地との連絡体制や人員の確保に苦労していた地図データベース編集部隊にとって非常に困難を伴いました。しかし、彼らも気持ちをひとつにして、日々の情報収集と更新に当たり、毎日最新情報をフロアに貼り出して共有してくれました。そのおかげで、交通網を中心とした地図更新は徐々に軌道に乗り、出版物等に迅速に反映できる目途が立っていきました」

震災による通行禁止道路(当時のデータ)

 

残るは津波の遡上範囲に関する情報です。あらゆる取引先、ツテを頼って衛星写真を探しましたが、なかなか見つかりません。

「今後も絶対に必要になる資料だから、と全社に向けて依頼をかけて、ふだんかかわりの少ない部署の人たちにもお願いしました。そうした甲斐あって、4月下旬に株式会社パスコさんから、空中写真と衛星写真から津波被害の範囲を判読して作成された資料を入手することができ、復興支援地図に盛り込むことができました」
「悩んだのは津波の範囲を示す場合のデザインです。通常なら青系の色で入れる場合が多いのですが、海との判別性、そして被災した方のお気持ちを考えた末、実用性やわかりやすさを犠牲にせず、かつさほど目立たない色にしようと思い、薄い茶色にすることにしました」

復興支援地図のページ例(薄い茶色が津波の推定遡上範囲)

『東日本大震災 復興支援地図』の表紙

 

これにより4月末には地図の意匠や商品の概要が最終確定、並行して編集、印刷、製本工程を進めていきました。いかに早く現地に地図を届けるか、岡口の思案が続きます。

本格作業開始から1カ月半で地図編集→印刷まで完了

144ページの地図帳の編集から印刷までを1カ月半で完遂するため、岡口はスケジュール表を何度も推敲し、関係部署に折衝しました。

「できるだけ早く届けたい、という思いで、ゴールデンウイークも返上して地図を作成してもらうよう関係者にお願いをしました。幸い、編集スタッフも、その後の印刷会社、製本会社も快く受け入れてくださり、5月下旬には本ができる目途が立ち、本当に頭の下がる思いでした」

『復興支援地図』編集製作日程表 上段が調整前、下段が調整後 一日も早く、という関係者の思いが感じられる

無償地図としての取り扱いと現地への搬送方法の検討・実施へ

東日本大震災に伴う地図の新刊企画や増刷にあたり、当社では関係商品の売り上げの一部を義援金として寄付することとし、対象商品にシール等で表示を行いました。

復興支援地図の取り扱いも、検討対象となりました。話し合いの結果、『復興支援地図』は販売品ではなく、無償提供とすることに決まります。

「この地図は、災害対策本部など、公的な機関に無償でいち早く届けることで、救援、復興支援に役立てていただきたい、という思いで作ったので、最初から無償で、しかも自分たちで運ぶつもりだった」と岡口は振り返ります。

「印刷・製本を担当した会社さんが趣旨に賛同してくださり、すべて無償でやっていただいたのもありがたかったですね」

最後は、現地への搬送方法でした。

「まず各県の災害対策本部など、公的な機関をリストアップし、こちらから届けることにしました。アポイントをとったり、物流に頼ること自体、復興で手一杯の現地の方々の負担になると思い、社員有志を募ってキャラバン隊を組織し、社用車で運び込むことにしました。社員に何か危険があってはいけないし、かえって現地の人に迷惑をかけてしまう事態も絶対避けなければならないと、搬入のスケジュール案やルート確認、補給方法、報告体制、判断用マニュアル、事前説明会に至るまで、とことん事前シミュレーションをして、備えました」
「あとは、メディアやボランティア活動の拠点など、必要としている方々からの受付窓口を開設して、お電話やファクスで注文をいただき、必要な方に届くようにしました」

2カ月半、片時も忘れることなく被災地に思いを馳せて働いてきた岡口は、この機会に自分も現地に行きたいと強く希望しました。しかし「司令塔が現地へ行ってはうまくいかない。残って有志のキャラバン隊に指示を出してくれ」と上長に諭され、東京から見守ることになります。

「この目で、実際の状況を見ることで、さらに何かお役に立てることが見つかるんじゃないか、と思いました。しかし、現地に向かったキャラバン隊は、地図情報収集のプロフェッショナル中心だったのです。彼らからの詳細な写真や電話の報告によって、実際の困窮ぶりが明確に伝わってきて、よし、これは彼らに任せよう、と踏ん切りがつきました」

キャラバン隊からの報告~宮城県庁に地図を運び込んだところ~

キャラバン隊からの報告~女川の被災状況~

 

7つのキャラバン隊が5月25日から31日にかけて、東日本大震災の被災地を訪問、約14,500部の『復興支援地図』を配布、ほかメディアやボランティアセンター、協力を申し出てくださった企業団体などを合わせると6月末までに25,000部以上が無償で配布されました。

ここまで緻密に残っている岡口の記録が、6月末の配布集計以降、プツリと途切れます。3カ月半に渡って気を張ってきたのが、ここでフッと抜けてしまった、といいます。
「ずいぶん後になって、現地の自治体の方から感謝状をいただいたときと、当時現地でボランティアだった方たちから、数年後に地図の背表紙に寄せ書きをした写真を見せていただいたとき、当時の思い出が一気によみがえってきて、感情的になりましたが、あとは無意識に思い出さないようにしている自分がいます。それくらい濃密な、緊張感ある日々だったんだと今は思いますね」

復興支援地図の担当者が「今、思うこと」

あれから10年。岡口も地図編集の現場を離れ、別の仕事に取り組んでいます。そんな岡口が「今、思うこと」を聞いてみました。

「自分も阪神・淡路大震災の惨状を見ているし、キャラバン隊からの報告で、震災から2カ月半経過しても非常に困窮していた現場の状況の知っているので、やはり被災地の大変さ、ご苦労というのは、想像を絶するものだ、という思いが強いです」
「あのときの『都市地図緊急出版』や『復興支援地図』の取り組みは、自分ひとりでできたことではなく、本当にたくさんの方々の協力、結束力があって初めて成し得たことです。その中には被災している人、親兄弟や知人が大変なことになっている人も少なくなかったのに、みんな被災地のためなら、と率先して慣れない作業や緊急の対応に当たってくれました。困っているときこそ、人の本当の温かさが現れるのだ、と心底感じましたね…」

「つい最近も東日本大震災の余震がありましたし、これからも災害がやってくることは残念ながら間違いありません。時代もどんどん変わり、IT化が進む中、どんなものが必要なのか、自分の中で答えは見つかっていないのですが、これだけは言えるとしたら、人の経験でもいいから、大きな災害の体験談、参考になる話を集めておくこと、それがとても役立つと思っています。冷静に判断するためには、判断材料、正確な情報がないと無理です。そのことが今、一番思うことです」

過去の大きな災害経験を経て、その思いを胸に、できることをひたすら進めた担当者の言葉。いかがでしたか。
もし再び大きな災害に見舞われた際に、果たして自分が冷静に判断し、周囲の人々の協力を取り付け、やるべきことを進められるかどうか、一体どんな準備が必要か、とても考えさせられるインタビューでした。

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東日本大震災から10年 『あのとき、そして今、思うこと。』 特設ページ
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