吉田 克也(よしだ かつや)先生
茨城県守谷市立守谷小学校副校長。 新潟県出身。1983年千葉県松戸市の中学校にて教員生活をスタート、1991年から茨城県で教員に。 昨年5月の新潟県の女児殺害事件の直後、デジタル地図ソフトを活用した通学路安全管理の手法を提案。 |
―――どうして先生になろうと思ったのですか?
いや~、大学は物理を専攻しまして理系だったので全然教育系じゃなくて…
理系なのに数学が得意でなかったんですよ(笑)それで理系の就職は難しいと。
―――理系なのに意外です。周りの方が研究者タイプだった、と?
ええ、みな数学が得意で。自分はこれでは研究者にはなれないけど、人と話したりするのは比較的得意でした。それなら自然科学に就く人間を育てる人になりたい、と思って、教員を目指すことにしました。
―――どこで就職しようと思っていたんですか?
新潟出身だったので、地元に帰って就職しようかと思ったときに、新潟は商売の街だったので、理系の就職がない、というのもありましたね。教員なら地元でも働けるかな、と。
―――では新潟で就職したんですか?
それが、たまたまですが千葉の教員試験に受かりまして、1983(昭和58)年に千葉の松戸で中学校の先生になりました。
―――中学校の先生だったんですね!
当時、松戸市だけで400~500名も教員採用があって。同じ中学だけで11人いました。今はたとえば茨城県全体で年に百数十人ですからね。
―――そこから茨城へ移られたんですね?
8年間、千葉で中学の教員をやりまして、そのあと茨城の教員試験を受けました。当時は40歳まで受験資格があって。今は59歳までですね。
―――なぜ茨城へ?
茨城に家を買いまして。それと出身も大学も田舎だったので、満員電車での通勤に自信が持てなくて…
―――これまた意外な理由ですね!茨城では小学校の先生になったんですか?
茨城は小中学校どちらも異動があるんですよ。最初は伊奈町(現つくばみらい市)の伊奈中に赴任しました。1991(平成3)年ですね。
―――いつから小学校の先生に?
2007年につくばみらい市の板橋小に赴任したときですね。
―――中学校から小学校への異動に戸惑いはなかったですか?
担任を持たない形だったので、なんとかなりましたが、40代後半に差し掛かってましたから、適応するのは大変ですよね。昨日15歳で今日から6歳の担任、という場合もありますから。
―――小学校ではじめて通学路の安全管理のお仕事を受け持たれたんですね?
板橋小で生徒指導主事になって、冬になった頃に担任を持っていた先生から「来年の登校班の編成、あなたが担当だよ」と。そこではじめてこれは大変だ、と気づきました。
―――どんなお仕事だったんですか?
紙の地図に児童の家と主な通学路を書き込んで、家の近い単位ごとに班を作って、あとは子ども会に見せて微調整してもらって、登校班を編成します。板橋小は学校主導で生徒指導主事が作ってましたが、学校によってはPTA、あるいは子ども会が作るところもあります。
―――毎年児童が変わるから手書きは大変ですよね?
いや、これを毎年はしんどいな、と。で、いろいろ調べて、デジタル地図ソフトなら更新も簡単で引継ぎもしやすいし、学校事務でも先生方の通勤経路確認に使えるので、購入してもらいました。地図を見ること自体は苦手で、街ではくるくる回してしまうんですがね(笑)
学校現場で毎年更新したり、プリントして共有したり、というのには向いてましたので。
―――それが今、役立っているんですね。ほか学校現場のデジタル化はどうですか?
板橋小でデジタル地図ソフトを使うにあたって、先生方が各々名簿を作っていたのを、統一した形式で入力してもらうようにしたんですね。住所の書き方など揃えてもらうのに。板橋小は今もその流れでやっていると思いますし、今の守谷小は今年から校務支援システムというのを入れたので、学校全体で名簿データを共有できて、便利になりました。
―――その後はどちらの学校に行かれたんですか?
2010(平成22)年に取手市の久賀小、2012(平成24)年に牛久市の向台小、2015(平成27)年に守谷市の黒内小、2017(平成29)年から今の守谷小、と異動してきました。
―――それぞれの学校で通学路安全管理を担当されたんですか?
学校によって管理の仕方が違うので、どちらかというと助言をしたり、という立場でしたね。
―――印象的なことはありましたか?
子ども会が登校班を決める学校では、家庭の事情で子ども会に入らない場合、登校班からも排除されてしまい、学校としては慌てました。学校主導で地図を元に編成しようとしたのですが、長年のやり方を変えるというのは難しくて…
―――ほかには?
冬に道路が凍結して車が歩道に突っ込んだことがありまして。登校時間前で事なきを得たんですが、学校からお願いして、ガードパイプとセンターラインポールをつけてもらいました。スピードが出せず不便になりましたが、それは仕方がないですね。
―――守谷小に来てからのお仕事は?
守谷市では2006(平成18)年に脅迫メールがあったのを機に、市長の英断で青パトという公用車を学校に配備していて、私は今、毎朝登校時間にその車で学区を巡回しています。PTA、地域の方にも街に立っていただいていますし、見守りの活動が事件、事故のあるたびに強化されている、という状況です。
―――最後に、弊社のデジタル地図サービスの企画担当が守谷小出身者だったご縁について、お聞かせください。
能登屋さん、ですね。校長先生が中学時代の能登屋さんを憶えていまして。珍しい名前なので印象に残っていたんですね。自分が使っていた地図ソフトを作っている会社、部門の人が本校出身者だった、というのは本当に縁を感じます。これを活かして学校の安全が更に高まる施策ができたら、すばらしいですね。
―――吉田先生、ありがとうございました!
文:竹内 渉 写真:鹿間 晶子
柔和な表情で淡々とお話をされる吉田先生。そのたたずまいは、教育者として子供を慈しむ気持ちに満ち溢れていました。時折現れる「理系なのに数学が苦手」「満員電車が苦手」「地図を見るのが苦手」といった苦手意識が、先生の人生を意外なほど左右しているのがとても印象的です。苦手意識をバネに、どうすれば解決できるか考えに考え、人生を切り開いてきた先生だからこそ「思い切ってデジタル地図ソフトを導入しよう」という画期的なアイディアに辿り着いたのでしょう。
私たちは今回いただいた多くの知見、事例、思いを踏まえ、学校の安全管理に貢献できる商品・サービスをこれからも作っていきたいと思います。
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