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1997年よりツーリングマップル東北の担当ライダーとして東北を走り続けてきた賀曽利さん。2011年の東日本大震災の2ヶ月後から始めた鵜ノ子岬~尻屋崎ツーリングを通じて、東北の太平洋沿岸を走り、東北の「今」の姿を記録し続けてきました。震災から5年の節目である2016年3月、東北の復興への歩みについて語ってくれました。


 

賀曽利隆(かそりたかし)
ライダー&ライター
1947年9月1日東京生まれ。スズキのバイクを愛好し、日本一周をはじめ、これまでに世界136ヵ国、152万km以上を走破したバイクツーリングの第一人者。昭文社ツーリングマップルでは1997年より東北の担当ライダーを務める。


●オフィシャルサイト カソリング

http://kasoring.com/

未曾有の大災害となった東日本大震災から5年。それぞれの方の中に、あのときの記憶と、この5年間の被災地の歩みが去来することでしょう。
2011年3月11日、ツーリングマップル東北担当ライダーの賀曽利隆さんもまた、大きな衝撃を受けました。 深い悲しみに暮れる中、昭文社のスタッフとその思いを分かち合っていく過程で「被災地をバイクでくまなく見て回ろう」という気力が湧いてきた賀曽利さん。私たちは震災2カ月後の5月10日に、のちに彼のライフワークとなる「鵜ノ子岬-尻屋崎ツーリング」への出発を見送りました。
この5年間、14回に渡る賀曽利さんのツーリング回想と、これからの5年に向けた展望、期待について、熱く語っていただきました。 バイクを愛好する方も、そうでない方も、ぜひご覧いただき、改めて被災地に思いを馳せていただければと思います。

昭文社

私が東北地方のツーリングマップルの担当ライダーを務めさせていただいてから、もう20年以上経つんですね。前身である「二輪車ツーリングマップ(1985〜1996)」が「ツーリングマップル」というタイトルに変わる、というタイミングで、担当ライダーとして関わらせていただいたのが始まりです。
東北の担当になったきっかけは、当時の担当編集者の方の「東北の地図があまり売れない」という言葉でした。「じゃあ私が東北の担当をやりましょう!」と言って手を挙げたのを覚えています(笑)
 
というのも、ちょうどその頃は、私が東北の面白さに気付き始めていた時期だったのです。90年代、多くのライダーにとってツーリングのメッカは北海道で、私も北海道はよく訪れていました。私の定番は関東から高速ではなく一般道で青森へ、そこからフェリーで函館へ向かうルートだったのですが、あるときから目的地であるはずの北海道もさることながら、その途中の東北エリアが面白い!と感じ始めたんです。そんな経緯もあり、東北の担当ライダーとしても、そして一ライダーとしても、東北の面白さにどんどんハマっていったという感じですね。ツーリングマップルが刊行された97年以降は、実走取材も兼ねて、毎年東北を隅々まで走っています。昨年2015年の私のバイクでの走行距離は5万kmを越えますが、その大半が東北です。

2004年、塩釜港にて

2011年3月11日。東日本大震災当日は、前日の中山道の街道巡りを終えて、たまたま神奈川県の自宅におり、そこで地震を経験しました。神奈川でも震度5くらいの揺れ、それも、今までにないような不気味な揺れでした。驚いてテレビをつけると、そこには衝撃的な映像が映し出されていました。
先ほどお伝えしたように私にとって、東北太平洋側は毎年走っている、いわば勝手知ったるエリアです。浜通り、牡鹿半島、三陸海岸、下北半島などはよくおすすめのエリア紹介などでも取り上げていました。そんな場所が、次々と津波に襲われている光景に、「これはとんでもないことが起こった」と、しばらくは茫然自失状態でした。特に、自衛隊が空から撮影した宮城県仙台以南の津波被害の様子を目にしたときは衝撃でした。それからは、毎日テレビや新聞の報道を食い入るように見つめる日々でした。

新聞から抜粋した犠牲者数のメモ 

あの当時は多くの人がそうであったと思いますが、私自身も、すぐに動き出すということができませんでした。あまりの衝撃に、足がすくんでしまった。しかし、とにかく何かしなければ、という思いで、まずは地震のことを知ろうと思ったのです。そこで、日々の報道に目を凝らし、これまでに起こった震災・津波被害のことを調べ、ノートにまとめ始めました。
そのころからの習慣で、この震災で亡くなられた方の数は今でも記録し続けています。新聞には5年間ずっと、行方不明者と死者数の数が載っています。「5年も経って、あの地震のことは、もう忘れられてしまった」なんていう人もいますが、そんなことはありません。この数字を毎日見つめている方も、まだまだたくさんおられると思います。

  

東北へのツーリングに出発したのは、震災から2ヶ月たった5月10日でした。行きたいという気持ちの反面、なかなか足が出なかったというのも事実です。本当に大変なことが起こっているところに、私が行っていいものか…という迷いや恐れもありました。でも、私にはツーリングマップルという仕事がありましたからね。私は東北の担当ライダーだから、ライダーとしてできることをするのが私の使命です。そんな思いが、背中を押してくれました。

ツーリングのルートは鵜ノ子岬から尻屋崎、東北太平洋側の端から端まで。私の足を使って、どの道が通れるか通れないかを見極め、被災された東北の全地域をくまなく回り、それを伝えることにしたのです。
それから5年の間、14回にわたってこの鵜ノ子岬〜尻屋崎間のツーリングを続けています。

最初のツーリングでは、とにかく現場を見て回ることに必死でした。写真を撮りながら、涙が出るような光景にもたくさん出会いましたが、そんな中でも道路網の復旧の速さは目を見張るものがありました。地震・津波の被害が大きかった地域でも「ここも、ここも通れるのか!」と驚かされました。もちろん周りは瓦礫の山でしたが、道路だけは掃き清められ、人が行き交っている。それだけで希望がつながったような思いで、日本は本当にすごい国だ、きっと大丈夫だと思いました。
例えば陸前高田市の気仙大橋は、震災から4ヶ月の2011年7月には仮橋が完成していますが、なんとも驚異的なスピードだと思いませんか。仮橋の完成のおかげで、国道45号線は宮城県石巻市の一部区間を除き、仙台から青森までのほぼ全線が開通しました。これひとつとっても、現地の方々からしたらどんなに大きな希望になったかわかりませんよね。道が絶たれてしまうのは、本当に不安で恐ろしいことです。人にとって、都市にとって「道は希望そのものなんだ」ということは、震災を通じて何度も感じました。
 
2011年5月以降、毎年2、3回のペースでこのツーリングを行ってきて、今年でもう15回目になります。現地の方々にも、「あれ、また来たの?」と声を掛けていただけるほどになりましたよ(笑)撮り貯めた写真も、もう何万枚にもなってしまいました。
回数を重ねるたび、ここも変わった、あそこも変わったと発見することがたくさんあります。最初のツーリングで見た瓦礫の山を、政府が3年でなんとかします、と発表した時、とても無理だろうと思ったものですが、3年目の2014年にはすっかりきれいになっていましたから、すごいものですね。早いところも、ゆっくりなところもありますが、東北全域で、復興は今も進み続けています。これからもずっと、東北を見つめ続けていたい、東北の歩みを後世に伝えていきたいと思っています。
 

「三陸海岸大津波」著・吉村昭

吉村昭さんの「三陸海岸大津波」という本があるのですが、この本には明治三陸大津波の前兆、被害、救援の様子が、実際に被災された方々の証言やこまやかな調査を交えながら詳細に記録されています。津波の被害を後世に伝える、大変貴重な記録だと思います。これを読んだ時、この方もきっと、並々ならぬ決意や使命感を持ってこの本を著されたのだろう、と感じました。
そしていま、私も、大好きな東北を襲ったこの震災を後世に伝えなければと強く感じるのです。私にできるのは、とにかくバイクで走り、見聞きし、記録することです。ですからこのツーリングは、もう私の生涯をかけたライフワークになっていくでしょうね。今年で5年目ですが、この先10年、15年、もっと先も、私がバイクに乗れる限りずっと、大好きな東北を走り、記録し、その変遷をみなさんへお伝えしていきたいと思っています。

東日本大震災の被害というのは、地震と津波、原発事故という3つの災害による被害が混在しています。なかでももっとも厄介だったのは、やはり原発事故によるものでしょうね。それを物語る象徴的な部分は、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町を貫く国道6号線の分断に見ることができます。
最初のツーリングのときに、この6号線が分断されていたのは衝撃でした。この道路は日本の中でも主要な、いわば幹線道路です。それが結局3年半以上にも渡って分断されていたなんてことは、明治以降で初めてのことではないでしょうか。
 

 

 

楢葉の通行止め
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1. 2011年5月11日、震災直後の最短ルート
震災後すぐの2011年5月当時は、広野と楢葉の境で国道6号線が通行止めになっていました。警察車両が並んだ物々しい雰囲気を覚えています。ともかく先に進めないので迂回しなければということで、主要地方道35号線を使って五社山林道へ、そこから黒森林道を経由して国道399号線に入りました。そこからは川内村、葛尾村、浪江町の津島、赤宇木、飯館村の長泥まで北上し、主要地方道62号線で南相馬市へ入ることができました。これが当時の最短ルートだったと思います。
このあと、福島第一原発事故の影響で、浪江町全域が立ち入れなくなったため、この399号線を使ったルートは使用できなくなってしまいました。

 

国道349号線
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2. 2013年6月27日原発事故の影響で変化した迂回路
そこで、次にメインルートになったのが、いわきから国道49号線を使って長沢峠を越え、そこから国道349号線を使うルートです。このルートなら、浪江町を避けて船引から川俣町まで走り抜け、そこからは主要地方道12号線で八木沢を経て南相馬に入ることができました。しかし、内陸の道路が突如メイン輸送路になってしまったのですから、さぞや混乱も大きかったことと思います。それまで静かな山道だった349号線に大型トラックがどんどん通るようになったため、事故や混雑も増えてしまったようですね。
このころ国道6号線は、南は楢葉町と富岡町の境、北は南相馬市と浪江町の境までは行けるようになっていました。

 

 

双葉町の通行止め
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3. 2014年3月11日 大回りの迂回路で輸送の混雑は解消
周辺の状況が変わるにつれ、メインの輸送路は磐越自動車道でいわきジャンクションから郡山ジャンクションまで行き、東北自動車道で福島西(もしくは福島飯坂)から国道115号線を使って相馬へ向かうルートがより重要になってきました。これで、349号線の混雑は多少緩和されたのではないでしょうか。
このころ、国道6号線はようやく南は富岡町夜の森、北は浪江町と双葉町の境まで通れるようになっていました。

 

夜の森で解除を待つ
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4. 2014年9月15日、国道6号線が復活
分断から3年半後の月日を経て、この日ようやく国道6号線が開通しました。バイクを始め二輪車が通ることができませんでしたが、楢葉町に住んでいる友人の車に乗せてもらい開通した日に走りました。夜の森から双葉町の間を通りながら、これでようやく富岡町、大熊町、双葉町、浪江町も次の段階へ進めるなと思ったものです。
それまで使っていた迂回路は、いずれも雪の影響を受けやすい山道だったため、開通したことで輸送関係者の方々も胸をなでおろしたことでしょうね。

 

常磐富岡IC
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5. 2015年3月1日、常磐自動車道が全線開通

 そして昨年の2015年3月1日、常磐富岡インターチェンジから浪江インターチェンジ間の14.3kmが開通し、常磐自動車道が全線開通となりました。このインパクトはものすごかったですね。「ようやくここまできたか」という思い、また、「これで復興はもっと加速するぞ!」という思いで胸がいっぱいになりました。
除染が終わったとはいえ、国道6号線の一部区間は現在も自動二輪車、原付、軽車両、歩行者は通行できません。しかし、その区間は主要地方道36号線経由で常磐富岡インターチェンジに行き、1区間常磐道を走って浪江インターチェンジで下りれば国道114号線を使って6号線に入れますから、もともとのルートにかなり近い道を二輪で走ることができるようになりました。
常磐自動車道のおかげで、国道349号線もようやく元の静かな道に戻りました。
 
つくづく思うことですが、「道」、つまり道路が持つ影響は非常に大きいものです。交通が整備されることで人が増え、モノが行き来し、経済が動き出すのだと思います。特に高速道路というのは人体に例えると動脈のようなもの。各地方が開通を望んでいるのも頷けることです。行動圏も移動時間も大きく変わりますし、それまで都心まで届かなかった地産品が立派な商品にもなり得ます。地元に与える活況感はものすごいものがありますよね。
私としては、今後、いわき中央インターチェンジから、仙台東部道路の岩沼インターチェンジまでの間が一刻も早く4車線道になればと思いますね。仙台東部道路は三陸道にも繋がっており、三陸道自体は河北・女川まで4車線道ですから、三陸道を含めて東北太平洋岸の一大幹線が完成しますよ。そうなれば、東北はもっともっと元気になるんじゃないかなぁ!(笑)
 
また、この迂回路の変遷を通じて感じることは、地震や津波だけの被害だけであれば、復興はもっと早く進んでいただろうなということです。しかし、福島第一原発の事故の被害は地震・津波のあとに時間をおいて顕在化し、この迂回路の変遷にも表れているように広く、様々な場所に影響をおよぼしていったのです。
風評被害を含め、甚大な被害を受け、現在も立ち入りの規制を受けておられる富岡町、大熊町、双葉町、浪江町については、本当に痛ましいことだと思います。1日も早い問題の解決を、私も望んでいます。
 

かつて東北太平洋側をツーリングしていたころ、三陸のリアス式海岸では、いたるところで巨大な防潮堤を見ることができました。まるで城砦のような高く頑丈な防潮堤を、津波がやすやすと乗り越えてしまったシーンは、テレビ画面を通して見ても凄まじい衝撃でした。
特に印象に残っているのは陸前高田のことでしょうか。陸前高田にあった海水浴場にも行ったことがあるのですが、きれいな砂浜があって、大堤防があって、国道45号線側へ振り返ると美しい高田松原が広がっている…そんな光景が全く変わってしまったのです。実際に訪れたときは、声も出ませんでした。
国道45号線沿いには流されずに残った5階建ての「定住促進住宅」があるのですが、その4階まで水位が達していたことがわかります。見ていると震災のことを思い出してつらいといった意見もあるでしょうが、こうしたものが震災遺構として残れば、後々にも津波の深刻さが伝わるのだろうなと思います。
また、釜石湾口にある世界でも最大級の湾口防波堤も、見るも無惨に破壊されてしまいました。釜石港の岸壁にはパナマ船籍の大きな貨物船が乗り上げていましたが、乗り上げ船ではその船が一番大きいものではないかと思います。
気仙沼でも、多数の大型漁船が陸地に乗り上げてしまい、地上には船と瓦礫がひしめくものすごい光景でした。見たこともない光景に圧倒され、もうどうしようもないかもしれないなぁ…という気持ちにさせられてしまいました。
しかし、ある漁港で、地元の漁師の方と話しているときに、「どうせ50年すれば津波はまた来る。そういうものだから、すべてを受け入れて暮らしていくしかない」というような言葉を聞いたのです。

地元の漁師さんの声に驚かされた

実は三陸という場所は、これまで度々津波の被害に見舞われてきた土地なのです。特に、明治29年(1896年)に起こった明治三陸大津波では、21,000人以上もの方が亡くなるという非常に大きな被害が出ており、この大災害によって「三陸」、「三陸海岸」の名前が日本中に定着したといわれています。また、昭和8年(1933年)3月3日の昭和三陸大津波では規模こそ明治三陸大津波よりも小さいものの、死者・行方不明者共に1,500人以上の被害が確認されています。
さて、明治29年(1896年)6月15日の明治三陸大津波、昭和8年(1933年)3月3日の昭和三陸大津波。記録によると、どちらも三陸沖で起こった地震の後に、津波が発生し、三陸を襲っています。そして今回、2011年にも津波は発生、三陸を襲いました。漁師さんの言葉の通り、ほぼ50年に1度、三陸は津波に見舞われているということになります。
 
これらのことから、私は今回の津波を「平成三陸大津波」だと捉えています。
 
三陸海岸はいくつもの湾が連続していますが、湾の一番奥にある町々はそれぞれの津波でどこも大きな被害を受けています。気仙沼から陸前高田、大船渡、綾里(りょうり)、釜石、鵜住居(うのすまい)、そして大槌、山田などがそうですね。
なかでも鵜住居では1,000人超、大槌では1,300人超、山田では700人超…国道45号線をバイクで走れば30分もかからないくらいの距離のこの3箇所で、3,000人以上もの方が亡くなっておられます。
また、大船渡から、海沿いの主要地方道9号線の先にある綾里湾は、津波の特異地帯といってもいい場所で、ぐっと押し寄せた津波がV字になった湾形により高く盛り上がります。明治三陸大津波の最大波高は綾里湾で記録した38.2m、昭和三陸大津波の最大波高も綾里湾の28.7mでした。今回の「平成三陸大津波」の最大波高もやはり綾里湾で、それらを上回る40.1mでした。
これらの記録からも、三陸は言うなれば津波と共に生きてきた地域だということが見えてくるのではないでしょうか。
逆に仙台以南になると、慶長年間にあった大地震による津波被害の記録は残っていますが、それ以降は津波に見舞われた経験がほとんどない地域であると言えるでしょう。
 

山田町にある「大海嘯(だいかいしょう)記念碑」

実は、山田町船越大浦地区には、「大海嘯(だいかいしょう)記念碑」という碑があります。それにはこんなことが書いてあります。
一大地震の後には津波が来る
一地震があったら高い所へ集まれ
一津波に追はれたら、何処でも此所位の高い所へ
一遠くへ逃げては津波に追付かれる  近くの高い所を用意して置け
一県指定の住宅適地より低い所へ家を建てるな
 
実際、山田町で津波被害から逃れることができたのは、近くの高台へ避難した方々、住宅適地より高いところに家があった方々だったそうです。そしてこの、「県指定の住宅適地」より下にある家々の多くは津波に押し流されてしまったといいます。かつて津波被害に遭い、そこから立ち直った人々の言葉が刻まれていたにもかかわらず、それを活かすことができなかったというのは、残念なことですね。そうした先人の知恵、経験を生かさねばと思っても、私たちにとって50年という長い年月伝え続けることはなかなか難しいものなのかもしれません。
しかし、今回の平成大津波を経験して、やはり三陸の皆さんにはその記憶、教訓を次代へと受け継いでいっていただきたいと思います。それは三陸に限らず、地震大国日本に暮らす私たち全員が心すべきことで、津波への意識や対策、教育を今一度見直さなくてはなりませんよね。
 
そんなふうに思うと、何度も災害に見舞われ、それでも立ち直って来られた方々だからこそ、三陸は津波被害対策の世界的な先進地域になることもできると思うのです。日本の観測技術、堤防の建造技術、そして避難訓練のような教育に関するノウハウは今後もより研究されていくでしょうし、それが日本、ひいては世界に役立つものになっていけばと思います。50年後、もしまた津波が来たとしても、今回のような痛ましい被害が起こらないことを祈ります。
 
 

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